最近気付いてゾッとしたことがあります。
それは、目の前のことにマジで集中できていないということ。
先日紹介したこちらの本でも、「マルチタスクよりシングルタスク」という話が出てきています。

これを読んだときは、「そりゃぁ一つのことに集中してやった方がいいよね。」と分かったような気でいました。
しかし、「仕事」とかクリエイティブな作業とか、いかにも集中力が要るものだけでなく、気付けば日常のなかのあらゆる場面で、「~ながら〇〇」をしていることに気付いたんです。
主にやってしまうのは、やっぱり「~ながらYouTube視聴」。
今まではみんなそんなものだろうと思っていたし、「作業用BGMとして」みたいな言い訳で、何かをしながらYouTubeを流すのは当たり前になっていました。
しかし、集中力の面や依存性の面など含め、最近になって「ちょっとこれはマズイのでは…?」と思いはじめました。
「寂しさと退屈」は沼の入り口
このブログをはじめるちょっと前あたりから、SNSから距離をとるようになりました。
それによって、少し心穏やかな時間が増えた気がするし、スマホとも良い距離感がとれるようになったかも!と思っていました。
しかし、私は現在会社勤めをしておらず、基本的に平日は家に一人。
体調面のこともいろいろあって、最近ではリアルの友人と会う機会もほとんどなくなっています。
もともと自分は一人の時間が好きだと思っていましたが、さすがに寂しくなったのか、気付けば「誰かがしゃべっている動画」を好むようになり、トーク系の動画や解説動画、趣味のタロット占いの動画など、とにかく人の話し声や会話を求めるように…。
もちろん、家事をしながら聞いてモチベを上げるとか、純粋に娯楽として見て楽しむのは悪いことではありません。
ただ、いつしかその習慣は、本来であれば目の前のことに集中すべき時間にも浸食してきました。
BGMや効果音も含めて好きだったはずのゲーム中。
ゆっくり自分を振り返るための、手帳やノートを書く時間。
文章を書くのに集中したいはずのブログ執筆の時間。
さらには、本を読むときまで…。
ゲームくらいはまだ良いとして、本来頭を働かせたいはずのアウトプットやインプットの時間にも、誰かがしゃべっている動画をひたすら横で流している。
当然ながら私は聖徳太子ではないので、見終わったはずの動画の内容も全然頭に入っていないし、目の前の集中したいことだってまともに出来ていません。
そのうえ、作業の間に動画が終われば、次にどの動画を見るか探す時間がはじまります。
ずっと流していると段々と脳みそも疲れてくるのに、それでもやめられず何度もオススメフィードを更新して、「なにか刺激的なものはないか」「面白そうな動画はないか」と探している自分…。
まるで何かにとり憑かれているみたいな気がして、だんだんと怖くなってきました。
昔はYouTube=音楽を聞くサイトだと思っていたくらい、音楽を聞くのが好きでした。なのに気付いたら音楽も全然聞かなくなっていて、そこもちょっと悲しいです(笑)
刺激と情報、タイパを求める脳
それなら、ただちに「~ながら動画」をやめたら解決するのでは?というと、そう簡単な話ではない気がします。
これはあくまで私の体感ですが、日々の(悪い)積み重ねですり減った「ひとつのことに集中する力」は、なかなか戻ってきてくれません。
いちおう作業中も、環境音や静かなジャズなどのBGMはOKにしてみたのですが、なんだかソワソワ落ち着かなかったり、謎に刺激を求めてAmazonとか開いてしまったり(笑)、以前より集中力は落ちたままな気がします(まぁ以前がすごく集中できていたのかというと、胸を張っては言えないのですが)。
もともとは「ちょっと寂しさが紛れるから」とか、「知らないことが知れたりして楽しい」、「面白い話が聞きたい」という純粋な気持ちで見ていたはず。
でも気付いたら、脳が「とにかく刺激が欲しい」、「常になにか情報を入れたい」という中毒状態になってしまったようです。
そしてだんだんとその刺激にも麻痺してきて、動画を流しているのに次に見る動画を探したり、動画を見ながらお菓子を食べつつ、さらに片手でスマホをいじり始めたり…(そもそも行儀が悪い)。
そのうちあらゆる刺激を同時に得られるように、四肢全部が違うことをするという曲芸みたいな技でも編み出しそうな勢いです。
ほかにも「タイパ」や「効率」を求め過ぎて、一つのことしか出来ない時間はもどかしいと思ってしまう現代人も多そう…。
マルチタスクで動くことで、作業の質が落ちたり脳の切り替えに時間を要したりと、結果的に「タイパ」悪いやんけって話もよく聞きますね。
依存と距離をとるために出来ることを考える
いろいろ言ってきましたが、何も「YouTubeは悪だ!」と言いたいわけではありません(コンテンツとして好きなことに変わりはないですし)。
今回の場合は、「~ながら動画」が極端に習慣化してしまったことで、依存性が高まり、何をするにも(あるいは動画を見ていないときにも)集中力が続かなくなってしまった…という個人的な問題です。
そして、現代社会の中で完全にYouTubeやスマホを断つことは現実的ではないし、そこまで極端なことをしようとは思っていません。
結局何が言いたいかというと、時間がかかってもちょうどいい距離感を見つけていくという、面白味もなければ凡庸な結論になってしまいます(笑)
もう少し具体的に意識することとしては、こんな感じでしょうか。
- 先述の「集中すべき時間」は人がしゃべる動画を流さない(ポモドーロタイマーなど、声の入ってない作業用BGMのみ可)
- 「今は何の時間か」、「今日これだけはやりたいということは何か」を意識する
- 作業、休憩、娯楽のメリハリをつける(全部地続きになってた…)
- 人がしゃべる動画ばかりではなく、たまにはじっくり音楽も楽しんでみる
- ときどき無音の時間もつくって慣れる(瞑想とかもやりたい)
これらはあくまで、私個人用にカスタマイズした内容です。
以前にも「デジタルデトックスだ!」と意気込んで、数日間YouTubeそのものを禁止しようとしたこともあるのですが、思ってた以上にキツくなり、早々にリタイアしてしまいました…(笑)
最初から現状とのギャップが大きい目標を立てるよりも、焦らず少しずつ手放したい習慣と距離をとっていくことが大事なんじゃないかと思います。
また、フルタイムで働いている方、子育て中で日中はお子さんが見たいものしか見れない方などは、自由な時間くらいは好きなコンテンツを楽しんでほしいと思っています(私の常時動画垂れ流しとはわけが違うので…)。
それでも同じように「スマホ依存やだらだら動画視聴が気になるなぁ」という方がいたら、ストイックになりすぎず、まずは小さな工夫から試してみてはいかがでしょうか。
しばらくしたら、なにか変化があったかどうかご報告したいと思います!
おまけ:参考図書『スマホ時代の哲学』
動画やスマホとの距離感についてはっとさせられたきっかけの一つが、以前「最近併読している本」の一冊としても紹介した、こちらの本です。
▼谷川嘉浩著『増補改訂版 スマホ時代の哲学 「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険』

著者の谷川さんも、本書の中で、「スマホを手放せ」「SNSをやめろ」みたいに極端な脱テクノロジー的主張は、実践的ではないと書いています。
大事なのは、スマホを手放せないことは前提として、そのなかでいかに失われつつある(人間に必要な)<孤独>を確保するか。
この<孤独>、そして<孤独>を確保するための<趣味>、さらにはモヤモヤやすぐに答えの出ない状況を耐える力<ネガティブ・ケイパビリティ>という言葉が、本書でのキーワードだと感じました。
正直なところ、今まで「哲学」という分野に触れてこなかった身としては、ちょと難易度は高めな本でした(笑)
ただ、「うぉ~!頭の中がこんがらがってきたぞ!」「つまりどういうことだ!?」という理解しきれなさを受け入れるのも、本書でいう<ネガティブ・ケイパビリティ>ということなんでしょう(たぶん)。
安易にまとめようとはせず、先ほどのキーワードをもとに何度か読み返して、刺激中毒やマルチタスクから孤独を取り戻していけたらいいなと思います。
本を読み慣れていなかったり、哲学と縁がなかった方は少し難しく感じるかもしれませんが、文体は柔らかく親しみやすい本です。
そして、「エヴァ」などの作品を例にしつつ読者に歩み寄ってくれているので、「スマホ依存、ちょっと他人事じゃないぞ」と思った方はぜひ挑戦してみてください(笑)
ちなみに著者の谷川さん、「哲学者」というだけで勝手におじいちゃんだと思われがちなんだそうですが(インタビューによるご本人談)、1990年生まれという私とほぼ同世代での方です。
今はちくまプリマー新書から出ている谷川さんの著書、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』を読んでいるところです!
読書という趣味も、スマホや動画から距離をとるきかっけとして活用できそうです。
そういう意味でも、引きつづき読書時間は確保していきたいと思います!
それでは、あでぃおす!ᐠ( ᐢ ᵕ ᐢ )ᐟ